わたしが東洋医学を目指した訳
カルテNO・00342
広島海田まつたに鍼灸整骨院
365日連続ブログ行進中
1964年5月広島県安芸郡坂町
松谷家次男として生まれる
保母をしていた母が
風邪をひく兄を見て
もしかしたら
厚着が原因ではないか?
そう思い薄着で育てられる
世にいう『裸っ子教育』であった
今から約50年あまり前
寒さから服を着せて守るという
一般常識のなか
薄着で抵抗力をつけることで
身体を守るという逆転の発想は
当時は珍しい発想であった
その奇怪とも思える行動が
NHKの目に留まり
テレビ出演するのでありました
その後薄着運動は全国に広がり
寒風摩擦をするなど
それまでの常識を覆すのでありました
そんな母親に育てられた
松谷行晃(まつたにゆきてる)少年
幼少期は「寒そうじゃ、可哀想じゃ」
と近所の人から見られていました
今では虐待と言われるかもしれません(笑)
幼少期父は身体を壊すことが多く
入院するのですが
なかなか効果がなく
困っていた父を救ったのが
鍼灸医学でした
父は鍼灸医学に傾倒しており
盲目的と思えるほど信頼していました
そんな環境もあり
鍼灸で人を助けたい
まるで鍼灸を魔法の杖のように
信じて止まなかった松谷少年
父にいろんな鍼灸院につれて行かれ
施術を受けるのでした
中学校に入学してからは
父親が『渋川一流』という
柔術をしていた影響もあり
柔道を始めるのました
柔道ではめきめき頭角を現し
絶えず安芸郡の大会では表彰台に登り
将来は道場を持って子供を応援したい
そんな夢を抱くようになりました
安芸郡の大会で上位だった
松谷少年柔道の名門崇徳高校から
スカウトを受け入学する事に
なりますがケガでリタイヤ
初めて味わう挫折感に
自分の夢を諦めかけるのですが
母と進むべき方向性を探している頃
明治東洋医学院の教師陣のなかから
高野千石の名を見つけるのでした
高野千石先生の奥様は
安芸郡坂町立坂小学校で
なんと母の恩師であり
懇意な間柄でした
そこで連絡をとり
当時大阪吹田にあった
明治東洋医学院鍼灸科
に入学することになるのです
高野千石先生は水戸藩砲術指南役末裔で
熊本大学理学部助教授を経て
島根大学理学部教授
明治鍼灸大学教授
東洋厚生科学研究所所長として
鍼灸を医学的に実証する
数少ない知識階級の先生でした
その教授から
研究課題を与えられ広島研究所所長竹邊博敏先生
から実技を教わると共に代替医療としての
鍼灸の教えを受けるのでした
その後戦後日本人鍼灸師として初めて
中国南京中医学院(薬科大学)に留学
鍼灸医術の手ほどきを受けるのでした
その後帰国現在に至っています
東洋医学と共に36年が過ぎました
人の身体を前に学ぶことばかりです
一般の方が思うほど
医学はまだまだ未知の部分が多く
解らなあいことだ荒毛ですが
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